中学生生活は悲惨であった。3年B組金八先生において加藤が大騒ぎをしていた時期である。全国的に中学校が荒れている時期。なぜ、小学生は中学生になると悪ぶるのかと不思議に思う。いじめる奴、いじめられる奴、その頃はどちらかに属していたように思える。いじめられないようにわざと誰かをいじめる、いじめっ子もいじめられる方も必至である。そこにあるのはよくわからない疑心暗鬼。あのどろどろとした人間関係の中にある苦笑い。人はどうしようもなくなると笑う。笑いは助けを求めるサインなんだということを覚えた。
教師もどうしたらいいのかわからない。まじめに生徒指導する先生、無視を決め込む先生、どうしたらいいか苦悩する先生、生徒から見えていたあの混沌とした空間。あの世代と過ごした空間は一種の熱病だった。ジュブナイル世代特有の理由の無いちんけな反抗だったのかはわからない。誰も理由がわからない誰も解決しようとは思わない。そんな悲惨な3年間、現実を無視し続けひたすら消費するのが得策だと思った。
そんな中で起きた小さないじめのこと。対象は長身のすらりとした女の子である。切れ長の目の奥には大きな黒目が覗いており、一文字に閉じた口元は他の女子とは違い、少し大人びた感じを醸し出していた。そんな彼女(A子と呼ぼう)は、見るからにチン毛ボーボーの感じの一人の不良男(B男)にターゲットにされてきついいじめを受けていた。衆人環視の中でもそれは行われていた。A子が笑うと、B男は怒る。別にB男を嗤ったわけではない。2階にあった教室のベランダに二人は出てB男がA子に罵声を浴びせる。さすがに男が女に手をだすわけにはいかない。コンタクト系のいじめではない、陰湿でもないが罵声と意味のない文句だけが一方から浴びせられる言いがかりに近い、見ていられないいじめだった。二人がなぜそんな状況だったのかはわからないし、あの時はどうでもよかった。もしもだれかが冷静になってそのいじめに対処できていればよかったのだが、その時は皆必至だった。やればやられる。その熱気は教師さえも退職に導くようなものであった。
A子に対するいじめは執拗だった。何かしらの理由をつけてB男はA子に対して追い込みをかける。A子はただうなだれて無視し続けているように感じた。それはあきらめなのかそれともB男が目の前にいたとしても10分も過ぎれば授業が始まる。タイムリミットは決まっていた。ボクシングに似たファイト。それはみんなが参加している。
人はストレス状態が続くとその状況に抵抗することを止めてしまうものだ。あの時のA子はそんな状態だったのかもしれない。
A子をいじめるのはB男だけ。A子に何か非があるわけではないのはだれもが知っていることだ。しかし、A子はいつもB男に罵倒を浴びせられていてじっと我慢している姿しか印象がなかった。それに干渉しようもなかったし、そんな状況であるA子には友達といえる存在がなかった。孤立無援。
熱病は冷めるときは一瞬である。卒業である。ゲームが終わればノーサイドというわけにはいかない。誰もがどこかに傷を負い卒業していった。A子もB男もどうなったかはわからない。この年代でクラス会の話が持ち上がったという話は聞いたことがない。あったとしても素直に昔を懐かしむことなんて出来ない。
今になってみれば、あの執拗ないじめはA子に対するB男の偏愛ではなかったのかと思えるようになった。A子に対する正直になれない愛情表現があのいじめのような罵倒であった。あの罵倒があったればこそB男はA子と一緒にいれたのである。やさしい言葉や気の利いた行動ができるほどB男は成熟していなかったのであんな子供じみた行動しかとれなかったのかもしれない。それはA子にとっては2年生から卒業までの2年間の貴重な青春の時間を無駄にしたものであったとしてもB男にとっては至福の時間であった。ジュブナイルだったB男は自分の気持ちを正直に伝える術を知らず、B子はその犠牲者。体は大人、頭脳は子供以下のクソ野郎。
いじめで自殺する報道があると、必ずA子とB男のことを思い出す。A子は死ななかったしB男が責められたということは中学時代聞かなかった。あの状況であってもこの中学では自殺がでなかったのだけが私の自慢である。あれだけ皆が傷ついたというのに。
市役所では今中学生の自殺問題で議会が揺れている。あの熱狂を呼び起こさせた原動力はなんだったのか。今の中学校の状況はあの金八世代よりも混沌としているのであろうか。