数年前に大きな地震があった。もう7年前というがまだ7年である。子供達はその頃は小学校4年生。外出の道すがら地震に遭い、すぐさま小学校へ迎えに行った思い出がある。天災の時には学校へ迎えにいくというきまりがあるのだがそんなきまりがあることは知らずとっさに小学校へ足が向いていた。家は家具が散乱していたが住めないわけではなかった。しかしライフラインが全くダメで1日だけ避難所で過ごした後、勤務先の病院で過ごすこととなる。学校は休校。子供達が大人の手伝いに駆り出される。仕事の多くはタオルを手のひらサイズに切る作業。紙ナプキンの在庫がどれだけ持つかどうかわからなかったためにとりあえず汚物を拭けるものが必要となる。何もかも不足していた。電気はとりあえず自家発電施設もあるし、車のガソリンは優先的に配給される。しかし、足りることがなかったものは紙や管やラップなどの消耗品である。そういう体験をしたのは私だけでは無い。私の周りの何十万人の人々が体験を共有している。
熊本で地震があったときはバスに消耗品(紙おむつやラップ、ティシュ類)を満載にして送り出した。そのときも誰かに要請されたわけでは無いが体がそう行動するのがさも当然のように動いていたのだ。備蓄していたものはすべて吐き出した。震災の教訓から病院など公共の施設では行政の要請などがなくても備蓄の食事や水は確保している。が、それは自分たちが万が一のときに使うためでは無いのだ。全国で少しづつ備蓄していることでどこかの地区で災害があったときに少しづつ助けあえることができる。使わないに越したことはないのだが。
今回の大阪の地震で緊張した東北人は多かっただろう。気持ちは7年前に戻っている。教訓は自分から得たものではない。日本全国の人々から教えられた。人は助けあるものだ。だから当然のように私の頭の中では支援計画を練っていたのだが今回は支援行動を起こすほどの被害はなかったので安堵した。しかし問題は地震直後だけではない。大阪の地震も1週間経った。天災としての地震という側面よりも人災としての地震位被害が焦点となっている。問題や事故が発生しないと課題がわからないところが歯がゆいところだ。こういった問題の解決策の行き着く先は大概政治的判断となる。決着するということではない。宮城県でも震災がらみの政治的判断に任されている問題がまだまだたくさんあるが未解決のままだ。政治的な判断を下すためにはまだ時間が必要なのかもしれない。大地震だったが見えるところではたいした被害がなかった大阪の地震であるが見えないところの問題を解決するのは時間がかかることを肝に銘じておかなければならない。